明日、2日の創立記念日に因み、創立記念講話を行いました。

2021/10/01

本校の前身の一つである「関西商工学校」は、明治35年(1902年)に平賀義美先生らによって創立されました。

厳密にいうと、来年の120周年は、関西商工学校の120周年記念にあたります。では、なぜ関西商工学校が創立されることになったかというと、創立4年前の1898年、丁酉倶楽部(ていゆうくらぶ)とよばれる大阪における元武士の方々の集まりがあり、大阪にも東京工手学校のような夜に学ぶことができる教育機関を創るべきではないかと、議論されたことに端を発します。
東京工手学校は、現在の東京新宿にある工学院大学の前身にあたります。明治20年(1887年)に創立されますが、「殖産興業」「富国強兵」のスローガンのもと、欧米と肩を並べるには、専門の技術者を補助する技師と、職工とよばれる工場労働者との間で、指揮監督する任務に当たる工手と呼ばれる技術者を育成するために創られた学校です。

 


今、見て貰っているのは、創立当初の関西商工学校の写真ですが、大阪においても、今から120年前は、中堅の技術者養成のための学校がなく、丁酉倶楽部の方々による将来を見据えた中での議論から、倶楽部の会長であった平賀義美先生が初代校長として就任され創立に至ることになります。創立当初は、商業・土木・建築・機械・電工・造船・紡績の7学科からなる実業学校でした。
学校自体は適当な土地が無く、当時の大阪市北区堂島浜通にあった大阪市立高等商業学校、現在の大阪市立大学の敷地・校舎・備品を3年間期限付き無償で貸与されて、開校されたそうです。そして、昭和6年(1931)年、福島区大淀の地に校地を購入、校舎が作られ茨木に移転する昭和38年まで授業が行われたのです。

 


ホール前の四体の胸像のうち、左から2番目が平賀先生です。
因みに平賀先生は1878年に東大の理学部化学科を卒業され、イギリスのマンチェスターにあるオーウェンカレッジ、現在のマンチェスター大学に留学されます。マンチェスター大学は、ケンブリッジ、Oxfordにつぐ名門大学で、現在までに25人のノーベル賞受賞者を輩出しています。

帰国後は、東京職工学校(現、東京工業大学)で教鞭をとられ、その後、大阪に来られ関西商工学校設立に至ることになりますが、大阪の実業界においても、織物や薬、硝子、セルロイドなどの会社の事業を支援されています。その1つである堺セルロイド会社は、現在のダイセルという会社で、そのダイセルの関連事業である写真フィルム事業からおこった会社が、現在の富士フィルムということになります。
また、関西商工学校では、パナソニックの創業者松下幸之助氏も学ばれていました。

 

 
次に、大阪大倉商業学校について触れたいと思います。
大阪大倉商業学校の創立者、大倉喜八郎翁は、1837年に現在の新潟県新発田市に、名主の三男として生まれますが、この時期は、大阪で大塩平八郎の乱が起こるなど、凶作・飢饉による百姓一揆が頻発し、江戸幕府崩壊の兆しが見え始めた頃でもあります。
生徒の皆さんの年齢に近い18歳の時、江戸に出、中川鰹節店で働きその後、独立。
時代の流れと先を見据えた事業を展開され、多くの事業において得た莫大な利益は、やがて社会の公共のために生かされることになります。
翁は常々、「我が国の貿易振興を容易にするためには、堅実な性格と新知識に裏付けされた有為な人材を育成する必要がある」と考えられていました。
 1897年、60歳の還暦を迎えられることを契機に、長年の友人でもあり翁のよき理解者でもあった澁沢栄一などとも相談し、商業学校設立の構想を発表することになります。澁沢栄一と翁とは、境遇、考え方など良く似ているところがあります。澁沢栄一は、日曜日に放送されているNHKの大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公で、福沢諭吉にかわり新1万円札の肖像になりますが、澁沢栄一の著作の中には、旧知の間柄である翁に関する記載があります。また、澁沢栄一らと共同で、今の東京証券取引所や東京ガス、東京電力、大阪紡績会社や帝国ホテルなどを起業しています。帝国ホテルは、澁沢が会長、翁が社長を勤めていました。
そして、10年後、1907年70歳の古稀を迎えられた翁は、当時のお金で50万円、今の金額でおよそ100億円を資金として、大阪大倉商業に50万円のうちの30万円、ですから今のお金で60億円、残り20万円に5万円追加し、ソウルの善隣商業学校に25万円、50億円を予算として、各々創立にむけ動かれていくことになります。


大阪市北区常安町の府の土地1,438坪の無償提供をうけ、大倉土木組大阪支店、今の大成建設大阪支店によって校舎建設に着手されることになります。新高校棟並びに建設が進んでいる中央共用棟を大成建設にお願いしているのもこのご縁があって建設に至っているのも解ってもらえると思います。
翁、70歳の時、1907年3月31日新校舎が竣工し、正式に認可され、初代校長に安場禎次郎先生を招聘して、学校運営を任されることになります。

大倉商業の教育方針は、非常に厳格だったとのことで、例えば、教科書やノートを忘れた場合は、内容の如何に関わらず該当教科は欠課扱い、その上、教室外に立たされたとのことです。また、身だしなみについての躾も厳しく、ボタン一つ外れていてもきつく叱りとばされ、言葉遣いでも、ある時、生徒が大阪言葉で、自分をあらわす「私」を「わい」といった程度でも3日間の停学処分を受けたそうです。
一方、授業においては、「読み」「書き」「算盤」を中心に進められましたが、当初から日本人でも外国と商売、貿易できるようにと、外国語教育にも力が入れられており、R・F・ヴィーチ先生というアメリカ人が英語の授業を担当されていました。

 


最後に、両校合併の話と創立記念日の話をして終わりたいと思います。今写っているのは、建設中の中央共用棟前にある蘇鉄です。
昭和20年(1945年)3月14日、太平洋戦争のアメリカ軍による空襲で大阪大倉商業学校の校舎は全焼します。学校は、空襲により、校舎や記録類すべてを失いますが、唯一残ったのは、共用棟の前にあるソテツだけとなり、3年近くの間、教室を求め大阪市内の学校を間借りしながら授業を続け転々とすることになります。同窓会から配布される会報の名前である『サイカス』は、この残ったソテツに由来します。そのような中、昭和22年(1947年)には、府から無償で貸与されていた土地の返還の要請並びに通知をうけたことで、校舎も校地も無く存続自体危うくなります。
また、関西商工でも、鉄筋コンクリートの校舎は一部焼け残ったものの、戦禍による憂き目と生徒数の減少も重なり、学校の存続について模索されていました。
このような状況の中で、両校合併の話が持ち上がり、両校関係者、大倉家、平賀家の了解を得て、大阪大倉商業校長で、のち関西大倉学園校長になられる高木美喜次先生らの尽力により、今日に至ることになります。

 

今、写っているのは合併式後に撮影された全校生徒の全体写真です。
創立記念日については、関西商工学校は、1902年(明治35年)10月3日でした。また、大阪大倉商業学校は、大倉喜八郎翁の誕生日が10月23日ということもあり、この日にあわせて開校式が開かれたことで、10月23日を創立記念日とされていました。
両校合併後、1948年(昭和23年)9月2日に合併式並びに入学式が行われたのですが、両校の創立記念日が10月ということもあり、昭和25年(1950年)10月2日に第三回創立記念式典が行われたことから、以後、毎年10月2日を創立記念日とし現在に至っています。
平賀先生にしてもイギリスマンチェスターに留学されていますし、大倉喜八郎翁にしても、明治5年(1872年)には自費で欧米の視察に行かれ、ロンドン滞在中、明治政府が派遣した岩倉具視らの使節団の要人達、具体的には、伊藤博文や大久保利通らと知遇をえることで、後々の事業との縁をむすぶことになりますし、その事業を通じて懇意になったのが澁澤栄一です。また、松下幸之助にしても、時代の趨勢を見極める先見性や行動力、ものごとに取り組む熱意(パッション)と高い志をもたれていることが、両校関係者に共通しているといえます。
先人の方々の教訓を糧に、生徒の皆さんも、自分の将来、未来を見据え、この先、社会にどのように貢献していくか。その基本的な力を中学、高校で培って下さい。

以上で、創立記念講話を終わります。